No6.耳朶(ジダ)に残る声

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 幼い頃、私は耳鼻咽喉科の上客であった。年がら年中、中耳炎と外耳炎を繰り返し、時々、鼻炎も併発していた。
 えげつない話で申し訳ないが、ある朝起きたら枕が頭から離れなかったことがあった。一晩中、耳から膿を垂れ流していたのだ。枕に付着した膿は、ガビガビに固まり、私の頭と枕を接着したのである。それほど私の耳は重症だった。
 私が耳の痛みに耐えかねて泣きだす度に、姉はトランプを持ち出した。今ではただのオバハンであるが、当時は姉もいたいけな小学生であった。姉は子供ながらに考えたのだろう。泣きわめく私に、スピードをしようと言うのである。スピードとはトランプのゲームで、双方で赤札と黒札を分け、手持ちのカードが無くなった方が勝ちというヤツである。文字通りスピード感なしには成立しないゲームだから、夢中になるうちに耳の痛みも忘れるだろうという作戦だったようだ。が、トランプ如きでひくような痛みでは毛頭ない。かくして私は、泣き叫びながらスピードに打ち狂っていた。……悲しい思い出である。

 耳掃除が好きである。ほとんど病的ともいえるかもしれない。綿棒は役に立たない。なぜなら、痒いところに届かないからだ。あまたの耳掻きを試すものの、これは! という逸品にめぐりあえないでいる。
 友人たちに呼びかけたわけではないが、何故か旅の土産に耳掻きを頂戴することが多い。決まって耳の穴に入らない方の先端に、キャラクターがくっついているという代物だ。何処を旅して来たのやら、地蔵が微笑んでいる不気味な耳掻きを頂いたことがある。重心が地蔵にあるため、使いにくいこと甚だしく、有難迷惑であった。
 何はともあれ、暇があれば耳掻きを手にしている。あまり執拗にやるものだから、たまに血をみる。その傷が、かさぶたになった頃、むず痒くて堪らなくなる。そして再び血を見る。最近、耳の聞こえが悪いのは……その為だろうか。
 ここまで読んで頂いて、動物が出て来ないやんけ! と、お怒りの貴方。しばし、お待ちを。
 決して、ネタ切れじゃありません……。多分ね。

黄ばんだ畳紙を拡げる度に、樟脳のかおりが濃度を増していく。息苦しさを覚えて窓を細く開けると、ひんやりとした夜気が忍び込んできた。
 はやばやと、着物を陰干しすればよかった。と私は後悔したが、男から切り出された別れ話に、ここ数日すっかり気が動転していた。四十という年齢のせいだろうか。いずれは別れなければならないのだ、と判っていたはずなのに、私は自分でも驚くほど男に執着していた。
 明日は、母の十三回忌だった。悩んだ挙げ句、濃い紫の着物に鈍い銀鼠の帯を選んだ。田舎から集まる親戚の女たちは皆、黒装束で来るに違いない。きっと、私の格好に眉をひそめるだろう。けれど、かまやしない、と思った。明日の晩は、男と会う約束になっている。私たちの諍いは、尚も続いていた。
 針道具を用意した時には、午前零時を回っていた。長襦袢に半襟を付けねばならない。
 戸籍上に父親の名が無い私は、母のようになるまいと誓っていた。なのに私は、何故、男と別れられないのだろう。娘時分に抱いていた母に対する嫌悪感が、今、自分自身に跳ね返ってくる。小刻みに震える針に、白い絹糸は容易に通らなかった……。

 一体何がおこったのかわからなかった。私は針を放り出し、頭を掻きむしった。右の耳に、何かがいる。鼓膜を突き破らんばかりに、猛然と暴れ狂っている。
 羽虫だ。蛾かもしれない。
 納戸を引っかき回し、懐中電灯を掴んで部屋に戻った。灯を消して懐中電灯を耳にあてる。一向に出て来ない。耳の中に撒き散らされる鱗粉を想像すると、吐き気がした。私は懐中電灯を放り出し、夜間の救急医療案内に電話をした。
 応対する男性の、ひどくのんびりした声に苛立ちながら症状を訴えた。羽音に遮られて、相手の声が途切れ途切れになる。
「夜間の耳鼻科はないんで……油を……死にますから……明日、受診して下さい」
 何度も何度も聞き返し、私は受話器を置いて暫く呆然としていた。調理用でいいから油を耳に入れろ、と言うのだ。虫は死ぬから、病院へは明日行けばいい、とも言った。
 半信半疑で、台所へ急ぐとサラダ油をお猪口についだ。それから、はたと気づいた。どれくらいの量を、入れればいいのだろうか。羽音は勢いを増している。私は、気がふれそうだった。躊躇している暇はない。
 意を決して油を耳に注いだ。ねっとりとした奇妙な感覚。ぼわん、として耳が圧迫される。熱い……。
 私は顎を傾けたまま、あっと声をあげた。ふいに生前の母の言葉が、脳裏に浮かんだ。
「死んだら、蝶か鳥になって会いに来るから邪魔にしないでね」
 羽音は完全に止んでいた。耳から溢れた油が、首筋を伝って鎖骨に溜まっている。
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